「いつから、と聞かれても、はっきり言えないんです」
その方は、そう言いました。
「ある日突然、何かが起きたわけじゃないんです」
最初は、小さなことでした。
言ったことが、うまく伝わらない。
頼んだことが、後回しになる。
一つひとつは、説明するほどのことではありませんでした。
「その時々では、気にしないようにしていました」
それでも、少しずつ積み重なっていきました。
話し合いをしたこともありました。
距離を置いたこともありました。
「変わるかもしれない、と思っていた時期もありました」
でも、戻ることはありませんでした。
周りからは、何度か言われていました。
「もう無理じゃないか」
「続ける理由があるのか」
その言葉を聞くたびに、考えました。
「理由を、探していたんです」
その方は言いました。
「終わらせるには、理由が必要だと思っていました」
しかし、はっきりした理由は見つかりませんでした。
大きな出来事はない。
決定的な何かもない。
「これだ」と言えるものが、ありませんでした。
「理由が見つからないから、終われないんだと思っていました」
十年が経ちました。
その間、何度も「理由」を探していました。
でも、ある時、気づいたそうです。
「理由を探している間、ずっと続いていたんです」
少し間を置いて、続けました。
「理由がないことが、終わらせない一番の理由になっていたんですね」
「もう無理だと思いました」
ある日、その一言が出ました。
それだけでした。
理由の説明はありませんでした。
「その言葉が出たとき、自分でも驚きました」
「十年分の理由を探していたのに、出てきたのは、理由のない一言だったんです」
その方は、後になって言いました。
「もっと前に終わっていてもおかしくなかったと思います」
少し間を置いて、続けました。
「でも、終わる時は、思っていたよりずっとあっさりしていました」
「理由があれば終われると思っていました」
「でも、理由がないまま、終わることができました」
十年我慢したことは、消えません。
しかし、終わりは、その理由を必要としませんでした。
理由のないまま、終わらせることができます。
そのために、書があります。
名もなきものは漂います。
名を持つことで鎮まります。
書が、それを綴じる。
