全部終わってから、やっと泣けた話

「泣いたら、決められなくなる気がしていたんです」
その方は、そう言いました。

話し合いは続いていました。
住まいのこと。
お金のこと。
今後の連絡のこと。
一つずつ、決めていきました。
「淡々としていました」
その方は言いました。
「泣くような場面だとは思っていました。でも、泣いたら、その場で終わってしまう気がして」

涙が出そうになる瞬間はありました。
そのたびに、次に決めることへ意識を戻していました。
「今はそのときではない、と思っていました」

相手と話すときも同じでした。
声は落ち着いていました。
「崩れたら、もう話し合いが続けられない気がしていました」
周りからは、こう言われることもありました。
「大変だったね」
「よく頑張ったね」
その言葉にも、うなずくだけでした。
「ここで泣いたら、まだ何も終わっていないことになる気がして」

手続きがすべて終わった日。
それでも、何も起きませんでした。
「終わった、という感じもしませんでした」
その方は言いました。
「ただ、静かでした」

数日が経ちました。
何もない時間が続いていました。
予定も、連絡も減っていきました。
そのときでした。
急に、涙が出ました。
理由はありませんでした。
きっかけもありませんでした。
ただ、止まらなくなりました。

「驚きました」
その方は言いました。
「もう何も決めることはないのに、なぜ今、と思いました」
少し間を置いて、続けました。
「ずっと、涙を後回しにしていたんだと、そのとき分かりました」

涙は、なくなっていませんでした。
ただ、出る順番を、ずっと待たされていました。
「泣いたら止まる」と思っていたのは、本人でした。
決めなければならないことがある間、涙は「今ではない」ものとして、後ろに置かれ続けていました。
すべてが決まった後、その「後回し」がようやく解除されました。

「あのとき泣かなかったのは、我慢していたからじゃなかったんですね」
その方は言いました。
「泣くと進めなくなると思っていたから、泣かないようにしていたんです」
少し考えてから、続けました。
「決めることが全部終わって、初めて、泣いてもいい状態になったんだと思います」

泣くことは、立ち止まることだと思われがちです。
決めなければならないことがある間、涙は後回しにされます。
それは、感情を消すことではありません。
「今は出す順番ではない」と、本人が決めていることです。
すべてが書として形になったとき、その順番待ちは終わります。
後回しにされていた涙は、ようやく出てきます。
そのために、書があります。

名もなきものは漂います。
名を持つことで鎮まります。
書が、それを綴じる。

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