「怒っているわけじゃないんです」
その方は、最初にそう言いました。
「ただ、ちょっとしたことで、いらいらすることが増えていて」
レンジの音。
ドアの閉め方。
LINEの返信が遅いこと。
普段なら気にならないことに、強く反応してしまう。
「自分でも、おかしいと思っていました」
離婚の話は、すでに落ち着いていました。
条件の話も、ある程度進んでいました。
大きな争いはありませんでした。
「怒る理由は、もうないはずなんです」
それでも、どこか引っかかりが残っていました。
「考えても、出てこないんです」
「大きな出来事はなかったので」
何かがあったはずだと思っていました。
しかし、思い当たることはありませんでした。
話を整理していく中で、ある場面に触れました。
離婚の話を最初に切り出したときのことです。
「あのとき、何を言われたか、覚えていますか」
少し考えて、その方は言いました。
「『分かった』、それだけでした」
「何年も一緒にいて、最後が、それだけでした」
「怒っているわけじゃない、と思っていました」
その方は続けました。
「相手は何も悪いことをしていないので」
「ただ『分かった』と言っただけです」
「それに怒るのは、おかしいと思っていました」
しかし、その「分かった」という一言は、何度も思い出されていました。
レンジの音にいらいらするときも。
ドアの音にいらいらするときも。
その奥に、あの「分かった」がありました。
その怒りには、まだ名前がありませんでした。
理由として扱うものが、まだ定まっていなかったためです。
苛立ちは、向かう先を持てないまま残っていました。
「分かった、の一言に対する怒り」
そう名前がついたとき、その方は言いました。
「急に、的が絞られた感じがしました」
住まいのこと。
財産分与のこと。
これからの連絡のこと。
一つずつ、形にしていきました。
「分かった、の一言で終わらせられたこと」も、その方の言葉として残すことになりました。
後になって、その方は言いました。
「あの一言に、ちゃんと怒っていたんだと分かって、楽になりました」
少し間を置いて、続けました。
「怒る理由がないと思っていました。でも、怒りはあったんです」
「ただ、行き場がなかったんです」
怒りに名前がついたとき、その輪郭ははっきりしました。
それまでばらばらだった感覚が、一つの場所にまとまりました。
名もなきものは漂います。
名を持つことで鎮まります。
書が、それを綴じる。
