「離婚したかったわけじゃないんです。」
「静かに暮らしたかっただけなんです。」
その言葉を聞いて、少し時間をおきました。
静かに暮らしたい。
それだけのことが、なぜこんなに時間がかかったのか。
怒鳴り声がありました。
ただ、毎日ではありませんでした。
普通の日もありました。
笑う日もありました。
だから、自分でも分からなくなっていたそうです。
「もっと大変な人もいる。」
「これくらい我慢しなきゃ。」
「私が悪いのかもしれない。」
その言葉を、何年も自分に言い続けていました。
でも、体は正直でした。
家に帰る時間が近づくと苦しくなる。
車の中でため息が出る。
玄関の前で足が止まる。
それでも、中に入る。
眠れない夜が続く。
何もない休日が、一番落ち着かない。
幸せではなかった。
しかし、不幸と呼べるほどのことも、うまく言えなかった。
その「言えなさ」が、一番長く続いていました。
「離婚したいんじゃないんです。」
「ただ、静かな場所で暮らしたいんです。」
「誰かの機嫌を気にしないで、眠りたいんです。」
相手を憎んでいたわけではありませんでした。
仕返しをしたかったわけでもありませんでした。
ただ、静かになりたかった。
でもその理由では、離婚していいのか分からなかったそうです。
「静かに暮らしたい」では、弱い気がしていた。
「もっとひどい理由がなければ、申し訳ない」と思っていた。
その迷いが、さらに時間を奪っていきました。
住まいのこと。
子どものこと。
財産分与のこと。
一つずつ、形にしました。
後になって、その方が言いました。
「離婚したかったわけじゃなかったんですね。」
「静かに暮らしたかっただけだったんです。」
「それでよかったんですね。」
最後の一言が、一番時間がかかりました。
「静かに暮らしたい」は、理由として弱くありません。
その言葉に名前をつけることが、ずっとできていなかっただけです。
名前がついたとき、初めて動けました。
そのために、書があります。
名もなきものは漂います。
名を持つことで鎮まります。
書が、それを綴じる。
