書に綴じるという考え方

人は時に、何がつらいのかを説明できないまま時間が過ぎていきます。
離婚でも相続でも、同じことが起きます。話しているのに進まない。決めようとしているのに決められない。終わらせたいのに終わらない。

昔の日本に、形代という考え方がありました。

人の重さや苦しみを紙や人形に移し、水に流す形です。重要なのは、消すことではありません。自分の中に留め続けないことです。

人が抱えたままでいると、判断が遅くなります。

何を決めても違和感が残り、同じ話が繰り返されます。条件の話に入れなくなります。
それは出来事のせいだけではありません。出来事に結びついたままのものが残っているからです。

形代の構造は、その状態を扱える形にするための仕組みです。
人の中で混ざったままのものを一度外に置く。外に置かれたとき、初めて輪郭が見えます。輪郭が見えたとき、次の一手が生まれます。

私の仕事は、書類を作ることだけではありません。

何が判断を止めているかを見つけることです。その滞りを書として固定することです。
形代と同じ構造です。人の中で混ざったままのものを分け、書に移します。移されたものは、一人で抱え直す必要がなくなります。

書は記録ではありません。

曖昧なものを固定する器です。離婚協議書も、遺産分割協議書も、公正証書も同じです。名もなかったものが、書によって名を持ちます。

名もなきものは漂います。
名を持つことで鎮まります。
書が、それを綴じます。


書に綴じるという考え方は、ひとつの構造として整理されています。


関係の中で、自分を失わないために

目次